Essay~これまでのこと、これからのこと~

Vol.5 フィナーレソング「会えるそのときまで」ができるまで

この「会えるそのときまで」という曲は、今ではヘルマンハープの演奏会でのフィナーレソングとして定着しています。ヘルマンハープの愛好家の方たちも、締めくくりの曲としてヘルマンハープで会場のみなさんと歌っておられます。

「藤井インストラクターの教室のコンサート」より

最近は、すぐ覚えられて、心がひとつになれる歌が少ないのですが、「会えるそのときまで」は、知らない人でも『1番を聴いていただければ、2番から歌えます』と、呼びかけることができるほど、すぐに口をついて出てくるメロディーです。
この曲を日本に紹介したのは、私ですが、その秘話をお伝えしましょう。

「会えるそのときまで」歌詞

そもそもの始まりは、2007年にドイツのヘルマンハープの開発者、ヘルマン・フェー氏が主宰するヘルマンハープのコンサートに出演させていただいたことです。夫と二人で舞台に立ち、夫が日本の心の歌、《ふるさと》を演奏し、私が歌ったのです。ヘルマン・フェー氏は300名の聴衆とともに一番前の席で聴いておられましたが、ある瞬間、ヘルマン・フェー氏が涙を流されたのを、歌いながら目に留めました。

その後、ヘルマン先生は私に、『ヘルマンハープに調和する声』だということで、『ヘルマンハープを弾きながら歌っていきなさい』と強く言われました。ただし条件付きです。『オペラ歌手のような歌い方で歌ってはいけない。なぜなら、聴く人がヘルマンハープを遠い存在だと思うから』ということ。そして、『ヘルマンハープで歌う時は、簡素な美しい響きで歌うように』という教えでした。このヘルマン先生の教えには、ヘルマンハープの生みの親ならではの深い意味があります。

そして、ヘルマン先生は、私に「ヘルマンハープで歌う」ためのドイツ曲をたくさん送って来てくださるようになりました。仕事に追われてすぐには拝見できなかったのですが、知らない曲も中にたくさんありました。
一方、プライベートでは、その頃「シャミー」という名前の飼い猫を癌でなくすというかなしい出来事がありました。スイスに住んでいた時に飼い始め、日本に連れて帰り、また夫の転勤でウィーンへ移り住んだときにも連れて行きました。娘が脳腫瘍で闘病生活が続いた時も、異国の地で淋しいときも、この猫がどれだけ家族を支えてくれていたことでしょう。この猫が死んだときには、一緒に棺桶に入りたい気持ちでした。
しかも、私は43歳で主婦から起業家に転じたので、自分が眠る時間さえ満足に取れず、また、子どもたちもそれぞれ家を離れ、晩年のシャミーは急に一人ぼっちの生活になったのです。どうすることもできなかったとはいえ、私の後悔はひとしおでした。

思い出すと涙があふれてくる日の中で、私はヘルマン先生が送ってくださった楽譜の中から、とても美しいメロディーに出会いました。そのときの自分の悲しさを受け止めて、なぐさめてくれる旋律でした。それが《会えるそのときまで》でした。ドイツの歌詞を読むと、心が洗われるようでしたが、それは日本語に訳すことは無理だと、歌詞をそのまま訳してもいいものには仕上がらないと感じました。しかしそのときから、このメロディーは私の心に留まり続けました。

あるとき、朝5時にぱっと目が覚めて、「今なら歌詞ができる!」ととっさに感じて、布団を抜け出し、《会えるそのときまで》の歌詞を作り始めました。ドイツ語の歌詞を訳して、訳した言葉をできるだけ活かしながらも、人の心を打つ新たなストーリに仕立て直し、「なぐさめ」や「慈悲」を必要としていた自分の心を落ち着かせる言葉を見つけ出していきました。『できた!』と目をあげると、7時でした。2時間思いをつめて、身じろぎもせずに書き上げた歌詞でした。歌詞を書き進めていく紙の上には、「シャミー」を失った最後の悲しみを吐き出すように、涙がぽたぽたとこぼれました。そして、《会えるそのときまで》の歌詞を書き上げたとき、掻き乱れていた自分の悲しみが収まりどころを見つけたかのように、こう確信することができたのです。「愛するものとの永遠の別れは、自分がいつかそこへ行くまでの間の時間だけの別れで、そして、その別れている時間は、宇宙から見れば塵のような一瞬の時間なんだ。"会えるそのときまで"の別れである」と。私はこの悲しみを大切にもちながらも、再び元気に顔を上げて生きていけるようになりました。できたばかりのこの歌の言葉に私自身が救われました。

2008年発売のCDアルバム「会えるそのときまで」より

2008年発売のCDアルバム「会えるそのときまで」より

2008年末に私ははじめてのCDを出しました。そのとき、この《会えるそのときまで》を 収録しましたが、ドイツから伝えていただいたこの曲については、ヘルマン先生やその周囲の多くの方から、「アイルランドの祝福の言葉をもとに作られた伝承の歌」とお聞きしていましたので、発売の際のジャスラック申請にも「アイルランド民謡」として申請していました。それほどドイツのみなさんがこの歌を、昔からあった歌のように口々に歌われているということです。
 ところが2010年にこの曲に作詞者がいることをインターネットで知りました。作曲者がいるどころか、私よりも若い方でした!
これはたいへんだということになり、ドイツの著作権管理会社を探して連絡を入れました。そして、その年のドイツ出張の機会に夫とともにその管理会社を訪ね、作曲者がいないと聞いていたので、申請をせずにCDを出版したことへのお詫びを伝え、あらためて、これからも日本で使わせていただきたいので、必要な契約を結ぶ方向でお話しが進みました。
それから夫は英語での契約書の作成を始め、ドイツと日本の著作権管理会社の間を取り持つ形で契約が成立しました。安心して、正式に私の日本語詞で歌えるようになりました。
その後もこの曲は、本国ドイツでも「もっとも成功した現代の唱歌」と言われるまでに成長を続けています。

2014年発売のCDシングル「会えるそのときまで」の試聴

この歌は、歌いながらも涙を流される方が多いのですが、私はいつもその人その人の胸によみがえる思い出や想いが、人の数だけあることを感じさせられます。
 2009年にヘルマンハープの音楽朗読劇「弦の音に導かれて」を書いてくださった、脚本家の高橋知価江さん。この方は、「アナと雪の女王」の全曲の訳詞者として脚光を浴びている方ですが、高橋さんはその音楽朗読劇の中で、《会えるそのときまで》を主演の劇団四季の秋本みな子さんが歌う場面で、『千沙都さんが未来に向かって歌い続ける歌!』というセリフを書いておられます。正直なところ、私にはその意味が長い間わかりませんでした。
 でも、何年もの間、人前でしっかりこの歌を歌ってきて、そこでいろいろな人の感想や想いをお聞きして、今ようやく『未来に向かって歌い続ける歌』という、高橋さんが台本にかかれた言葉の意味が分かりました。
「会えるそのときまで」の伝えるメッセージは、「愛する誰かとの別れは、長いようでもほんとうは少しの時間。だから、残された人が顔を上げて、勇気を出して生きていくために…」。この曲は人類を包む応援歌の意味を持っているのです。ヘルマンハープでこの応援歌をしっかり歌い続けたいと思います。